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益子焼の歴史

1、益子の陶業のはじまり
 益子と笠間は山を隔てて隣り合い、益子焼は笠間焼きの流れを汲むものといわれている。江戸時代、益子は黒羽藩二万石の飛地で「下之庄」と呼ばれた。
 益子での瀬戸焼は嘉永5年(1852)益子陣屋の裏山西麓、根古屋に大塚啓三郎によって築窯されたのに始まる。
 啓三郎は、笠間の鳳台院に奉公にあがった。住職、雄山大周は啓三郎を連れてしばしば久野窯を訪れ、和尚のはからいで久野窯で製陶の仕事を見習った、と伝えられている。
 その後、啓三郎は益子の城内の大塚平兵衛の婿養子となり、製陶の業を興すに至った。
 文久元年(1861)には大塚啓三郎、加藤庄助、菊池清蔵、の3人が松木払い下げを山方奉行へ願い出ている。さらに文久4年(元治元年)の松木払い下げ願いでは新たに大塚平八を加えた瀬戸職人四人となっている。
2.黒羽藩と益子陶業
 瀬戸物の品数や数量が多くなるとともに、啓三郎は後継者養成の基本にかかわる仕法の設定についての意見書を黒羽藩に提出。この意見書は高く評価された。その大意は、近来瀬戸職人が不足し、製品が充分に出来ないので、製品を多量に作り得る御仕法について、瀬戸職に志そうという子供がいれば、職人に仕立てたく、引き受けて職人に仕込みますというもの。
 啓三郎は慶応二年(1866)「藩候大関氏挙為村長」とあるように、益子の陶業発展に尽くし、同業者の指導的人物であったと考えられる。
 当時の益子の生産品は日用品が主で、特に土瓶・擂鉢(すりばち)・壺・片口・徳利・皿・行平・土鍋・土釜などの台所用品が多く、これらの製造品は陸送の後、真岡の鬼怒川大沼・柳林河岸を通じて東京に送られた。
子供の年季は10歳から15さいまでは7ヶ年、15歳から20歳までは5ヶ年とし、その年限中は食事、着物、小遣いなどは窯元持ちで仕込みます。そうすることによって、国産(瀬戸物)がますます繁昌し、瀬戸場も多くなって参ります。また、今の職人達は世渡りするので、御上様(藩)から世渡りをお差し留め下されば親の心配もなくなります。また、職人数が多くなれば、税収(連上)も年々増加いたします。そこで職人志望の子供の親たちへ御厚恩をもって御蔵米(藩の米)にて年にお米二俵ずつを下されますよう。
慶応元年(1865)に大塚啓三郎が黒羽藩に提出した意見書内容
3,明治期の益子陶業
 明治初頭には土瓶・土鍋に「白土」を掛けて絵付けしたものが多量に生産された。これらは、東京から絵付師を招聘したり、無地のものを東京に送って絵付けしたものがあり、益子では「安南」・「京造り」と呼んだ。
 30年には窯元数51名、職工数200名であったが、36年には職工数400名に達し、生産額も倍増した。
4、大正期の益子陶業
 大正期には都市での燃料が炭からガスへと変わったため、製品の主体を占めた土瓶、土鍋類の販路が関東・東北の地方に限定されたと伝えられる。13年には浜田庄司の来住があり、氏の影響を受けた人々が民芸風の製品を作り始めるが、それが顕著となるのは第2次世界大戦の後であった。
 明治になって鉄道が敷設され、アイデア商法として始まったのが弁当の販売で、明治10年神戸駅で始まった。お茶が販売された時期は明確でないが、この当時の汽車土瓶は無記名で益子では(枝梅)、窓絵山水、信楽では山水であった。明治時代に汽車土瓶を製造していたのは栃木の益子、岐阜の土岐(駄知)、滋賀の信楽(神山)、福岡の野間、佐賀の白石(皿山)などで、いずれもロクロ引きによる内キ土瓶であった。益子では土瓶の内側(無釉)へ茶碗を入れて蓋をして、それを棒状にして焼いたので、大正期には登窯で一度に数万個焼けたらしい。
 

益子焼窯元よこやま

〒321-4217 栃木県芳賀郡益子町益子3556-3

お問い合わせ 0120-696-864
(ろくろやろーよ)

営業時間 AM 9:00 〜 PM 5:00

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