益子焼窯元よこやま

益子焼の歴史 

益子焼の歴史・はじまり

益子焼のはじまり、故人間国宝の民芸運動、関東大震災後の益子焼、現在の益子焼について。

 

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・益子焼の製造工程(窯元よこやま編)やきもののできるまで

・益子焼の歴史について学ぼう

・益子焼の陶土について学ぼう(採掘現場を見てみよう)

・益子焼Q&A

・陶器リサイクルへの取り組み

大塚啓三郎氏(おおつかけいざぶろう)が益子に築窯

益子焼の始まりは、嘉永6年(1853年)に、茨城県・笠間(いばらきけん・かさま)で技術習得した大塚啓三郎(おおつかけいざぶろう)氏が、益子村内の大津沢(おおつさわ)で良質の陶土を発見し陶芸を行うようになりました。益子の根古屋(ねごや)に窯を築いたことが始まりである。根古屋は現在の益子小学校付近で根古屋池のある付近です。益子焼は笠間焼の流れを組んでいるのです。

 

江戸時代(えどじだい)、益子は黒羽藩郡奉行によって治められていました。窯は5、6箇所に増えていました。
しかし、陶芸は農業の片手間であり、窯を築き、仕事場を建て、陶土を掘り、燃料を買うにはお金が必要でした。大塚啓三郎は資金を貸して欲しいと藩の役所にお願いしました。藩は将来必ず伸びる産業だと考え、資金の貸付をして、管理をすることになりました。

 

当時益子は黒羽藩によって治められており、瀬戸焼が国内で発展していた為、益子の瀬戸焼として生産されていた。そのため、水がめ、擂鉢、土瓶等の台所用品が主に作られてました。

明治期の益子焼

~明治期の益子焼~

益子焼は主に関東地方(かんとうちほう)に出荷されました。
当時、関東地方の焼き物は笠間焼のみで、益子焼の需要が高まりました。大塚啓三郎は、慶応(けいおう)2年(1855年)、藩の命令で村長になりました。
売れ行きが良すぎて、粗製品(そせいひん)まで乱売したため、益子焼の信用が落ちてしまい、アメリカへの輸出も途絶えてしまいました。

そこで、明治36年10月、「益子陶器同業組合」が設立。信用回復のためには腕の良い職人を育てる「益子陶器伝習所」を設立。

大正期の益子焼

~大正時代の益子焼~

益子焼がよく売れたのは明治の末まででした。生活様式が大きく変化したためです。

大正くらいから燃料が木炭から石炭ガスに変わり、益子焼では高熱に耐えられないため(直火では割れてしまう)、台所用品はアルミなどの金属にとって変わられました。味噌も漉した(こした)味噌になり、すり鉢が要らなくなりました。
食材など保管するための壺(ツボ)や甕(カメ)も使いやすいガラスや金属製のものいに変わっていったのです。益子焼の売上は低くなる一方で、大正9年には、8月の一ヶ月間、製造を中止したほどだったそうです。

 

人間国宝の故・濱田庄司氏(はまだしょうじ)が大正13年に益子に窯を築き、益子の土と釉を生かした壷、皿、食器を造られ、益子焼は少しずつ変化をしていく。濱田庄司が益子で制作をしていく中で、それまで日用品だけであったものが、佐久間藤太郎の様に民芸陶器を志す者がでてきた。民芸、益子焼のはじまりである。

関東大震災後の益子焼

大正12年9月1日の関東大震災で様子が一変しました。
台所の道具が全て壊れ、突然需要が増え、益子焼は作っても作っても間に合わないくらいになりました。各窯元ではたくさんの日常品が製造、出荷されました。

 

人間国宝・浜田庄司

大正13年、濱田庄司(はまだしょうじ)氏が益子に定住しました。
土も釉薬も良く、昔ながらの製法が守られている益子を選びました。
柳宗悦(やなぎむねよし)が濱田と「民芸運動」を提唱し、益子焼を民芸品として推奨したため、有名になりました。

「民芸運動」とは、

そのおかげで、たくさんの作家が益子焼の民芸品を作るようになりました。

 

太平洋戦争(たいへいようせんそう)の時代には、金属がとられた代わりに、陶器が使われるようになりました。益子焼は丈夫で安いため、需要が増えました。

戦争中は窯の火が敵に見つからないように、ハラハラしながら焼いたそうです。

こうして、昔ながらの製法を守り続けながら発展していき、今日にいたっているのです。

人間国宝・浜田庄司のうつわ

濱田庄司 益子焼 できるまで↑上記は濱田庄司氏の作品。左奥:柿釉薬を使った角瓶でサトウキビ模様がろう抜きされております。右奥:サトウキビの鉄絵皿。右前:サトウキビ図柄の湯呑。左手前:黒釉の指書き湯呑。これぞ民芸益子の風格です。

 

益子の名陶工

~益子焼の名工~

・人間国宝濱田庄司氏(故)・・・益子の土や釉薬や使い、民芸運動を通じて益子焼の世界に広めた。柿釉、黒釉、糠白釉、鉄絵、流し掛け技法、ろう抜き技法、赤絵技法、まと絵図柄、サトウキビ図柄などを巧みに使う。

 

・人間国宝島岡達三氏(故)・・・陶土に異なる色合いの陶土を埋め込んで絵模様を作る象嵌技法が代表作。灰被り、色象嵌などが有名。

 

・皆川ます氏(故)・・・山水土瓶の絵付師として有名。勢いあるタッチの山水画。

 

・木村一郎氏(故)・・・益子の伝統釉薬を斬新な図柄、使い方で表現。

 

・村田元氏(故)・・・益子の土と伝統釉薬で素朴さを表現した作品が多い。豪快な鉄絵、流し技法などが有名。

 

・加守田章二氏(故)・・・新時代のやきものづくりを表現するかのような斬新なデザインが今も高く評価されている。山水土瓶 益子↑益子山水土瓶。民藝運動が拡がる以前、江戸末期から昭和初期頃の益子焼です。絵師:皆川マスの作品は柳宗悦や浜田庄司らに絶賛され注目されました。土瓶、火鉢などに絵付けをして窯元を回り1日に500から1000個もの絵付けをしたと云われています。

益子焼 できるまで 窯元よこやま
↑明治期、大正期、昭和初期には、大きな甕や壺が職人の手によりたくさん生産され、貯蔵用として用いられた。

窯元よこやまの歴史

 

・益子焼窯元よこやまができる以前昭和初期

益子焼 陶工横山 甕 職人

↑写真:由夫氏の父の作陶光景。職人として窯元を歩く。鋭い視線で大きな甕を制作している。この当時、職人は歩き作り手として窯元を歩き制作していたそうです。昭和20年頃。

 

・益子焼窯元よこやま

昭和45年横山由夫氏が築窯・・・益子焼の伝統釉薬を用いた器作りが始まる。民芸作陶。湯呑み、絵皿、壺などの民芸陶器を作陶。

 

昭和50年・・・湯呑、めし茶碗などの益子焼日用生活品を製造。絵皿、壺などの装飾品を主流に制作。ガス窯。

 

昭和55年・・・薪窯・登り窯を築窯。

平成元年・・・「炭化焼き締めシリーズ」を制作開始。黒褐色の落ち着いた雰囲気の器作りが始まる。ガス窯に薪を投入できる窯を築窯。

 

平成10年・・・「陶芸体験教室よこやま」を運営開始。ものづくりの楽しさ、益子焼の良さを伝える。「インターネット通信販売」も行い、遠方のお客様にも器を届けている。

 

現在・・・益子焼は時代に沿ったニーズが求められ、多種多様な器作りを展開。

横山陶芸 益子焼 歴史 益子焼のできるまで 勉強 学習↑昭和53年作:横山由夫作 伝統工芸益子焼

 

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・益子焼の陶土について学ぼう(採掘現場を見てみよう)

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